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2002年の編集後記 〜イツマデドコマデ〜

サイトを始めようと思ったきっかけは何だったろう。
音楽ともだちを増やしたい?
自己表現の場を求めて?
あまりハッキリしたことは言えない。

「必要は発明の母」とは言うけれど、
僕は自分が見たいと思うサイトを作りたかったのかもしれない。
まあ、「音楽サイト」っていうか。そんな感じのものを。

やっぱ「情報提供」なのかなあ。主な役割は。
いろんな事情で音楽情報が得にくい人もいるだろうし、
情報に触れる機会がないばかりに、
素晴らしいアーティストの存在に気づかずに
時を過ごしてしまう、そんな人もきっといるはず。
だからなんかの弾みでこのHPにやってきた人に、
素晴らしきアーティストたちの情報を提供したい、
そんな想いがあったのかもしれない。

確かに雑誌をめくれば情報は得られるけれど、
そこにはやはりビッグアーティストであったり、
現在シーンで人気のアーティストであったりが紹介されていることが多い。
じゃあ、それ以外のアーティストは?どうなる?

そんな思いに導かれ、このHPでは、お気に入りのビッグアーティストはもちろん
メインストリーム寄りでありながらも
中心からは少しズレた位置にいるアーティストも紹介できたらなあと、
ぼんやりとではあるが、開設当初からずっと思ってきた。
今のところあんまりうまくはいっていない気がするけれど、
さりとて決して失敗という感じでもないように思う。

僕は別に評論がしたいわけじゃないから、
各アーティストについて分析的なことはあまり書かない(書けない)し、
今までもほとんど書いていないつもりだ。
あくまで「紹介」。
このアーティ ストのこの作品で鳴らされているのはこんな音ですよ、
そんな情報を提供したいと思って、今までやってきている。

作品(まあ主にCDだ)を聴くというのは、1つの「体験」であって、
そう考えると、僕は自分が各アーティストの作品を聴いて得た「体験」を
「情報」として発信していることになる。何かややこしいけれど。
そして「体験」の伴わない「情報」は僕のHPには
載せていないつもりだけれど、
ひょっとしたら、少しくらい紛れ込んでいるかもしれない。

音楽なんて「音」なんだから、
体験しなきゃ(つまり聴かなきゃ)それについて語れるわけないじゃん、
そう思うんだけど、
でも知識量が膨大なら、つまり「情報」さえ揃ってれば
ある程度は語れてしまうんじゃないかと思う。
さも自分が「体験」したかのように。

rockin'onの2002年7月号、
渋谷陽一さんと松村雄策さんが繰り広げる『渋松対談Z』。
渋谷さんは自分の下で働く社員である稲田浩さんが、
映画『あの頃ペニー・レインと』に行ったコメントについて
面白いことを言っている。ちなみに『あの頃ペニー・レインと』は、
16歳の少年がローリン グ・ストーン誌の人気ライターになるまでを描いた映画。
渋谷さんが
「監督のキャメロン・クロウ自身の自伝的な作品」
と言っていることからも
分かるように、監督自身が生きてきた70年代の音楽シーンが、
映画の中では確固とした存在感を放っているようだ。
稲田さんがこの映画について具体的にどうコメントしたのか分からないが、
渋谷さんはこう言っている――

『稲田なんか“ロックがきらきらしていた頃”なんて
情報誌でさえ書かねえ間抜けな表現使ってるし。
お前は見たのかよ、そのキラキラを』

体験が伴わずとも言えてしまうということだ、
「70年代のロックはキラキラしていた」と。
上の言葉は多分そう言う意味だと思う。

『今から20年後、日本のポップシーンを描いた映画が作られて、
そこに15歳でデビューした女の子が登場して、
中腰になって歌うビデオ・クリップが出てきたら、
それが何をモデルにしてるか分かるだろう。
それが分かんないなら語るなってことだよ。
だいたい70年代、70年代っていうわりに知らなさすぎなんだよ』

考えさせられる言葉だ。
70年代末期に生まれた僕に してみれば、
70年代という時期に音楽シーンで何が起こっていたかについては
「体験」ではなく、「情報」を通してしか知ることができない。
そんな僕がもし「70年代の音楽シーンは云々かんぬん」と語っても
そこになんらリアリティはないわけだ。
別に語ろうとも思わないけども。

まあどんな事物についての「情報」であれ、
語り継いだり記録に残したりする他に後世に伝える術はないわけで。
となると、後の世代が自分で体験できなかった事柄について
情報のみで語らざるを得なくなるのは、必然のことと言える。
極端な話、2000年に生まれた子供たちが20歳ぐらいになって、
「いやービートルズのライヴって云々かんぬん、カクカクシカジカ」
なんて言えるわけない。
なぜって彼らはビートルズのライヴを情報でしか知りようがないから。
体験したくてもできないから。

ところで、
「体験」よりも「情報」で音楽を語らざるを得ない、
あるいは「体験」よりも「情報」の共有で盛り上がる、
そんな傾向は今後加速化するんじゃないか、そう思う。
作家の重松清さんは自分たちの世代を、
『「やったやった」じゃな くて「知ってる知ってる」で盛り上がる』、
そう形容しているけれど、この形容が今後の「音楽を語る人たち」にも
当てはまるようになっていくのではないか。

昨今は情報化社会のせいなのか何なのか、
各アーティストの情報が随分と入手しやすくなってきた。
その反面、「情報」だけは持っているけれど「体験」したことない、
そういう人たちが爆発的に増加しているように思うし、
これからも増加する可能性は大だろう。
例を挙げれば
「マリリン・マンソンのスタジオアルバムが何枚出てるかも知ってるし、
その音楽性がどんなものかも知ってるし、マンソンの顔も知ってるけれど、
でも音はまったく聴いたことない」とか、そういう人たちだ。
別にそういう状況自体が良いとか悪いとか言いたいんじゃないけれど。

でも所詮は僕のHPも「情報」しか提供できていないわけで、
僕のHPを読んでくれた人たちの中には「情報」だけが蓄積されていくわけで、
そう考えると、僕のHPも
「あのアーティストが大体どんな音を鳴らしているか分かる」けれど
「音自体は未聴」、そういう人たちを増やしているわけだ。
そう考えると・・・・・ ・何かチョット・・・・・・空しい。
いや、それが僕の狙いなのかな?喜ぶべきなのかな・・・。

いや、僕がやりたいことは「体験」を促す「情報」を提供することだ。
僕の提供する「情報」に触れて
「お、これ聴きたいな」という気持ちになってもらえれば、
そして実際に自身の手で「体験」してもらえれば、
それでOKなのだ。
僕の役割はきっかけ作りに過ぎないわけだ。
多くの音楽サイトがそうであるのと同じように。

そして今日も今日とて、
僕は盤(CD)をプレイヤーに乗せ、
「体験」を重ねていく。
自分自身が楽しむために。
そして「情報」を提供する。

この提供がいつまで続くかは分からないけれど。

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参考・引用文献

渋谷陽一・松村雄策. 2002. 渋松対談Z. rockin’on, No.7, 178-179. ロッキング・オン

2003/01/08 (最終修正日:2003/05/22)
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