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『チューイングボーン』と私の記憶

最近はもう、読書の記憶というやつは、
ブログの方に記すのが常になっていたのだが、
今回は長くなりそうだということで、
こちらのテキストに記してみた。

『チューイングボーン』。
第12回日本ホラー小説大賞において、
長編賞を受賞した作品である。
だもんで、ジャンルわけされるなら、
“ホラー”になってしまうんだろうけど。

ホラー小説って、大きく分かれると思う。
ひとつは、古いくくりかもしれないけれど、
アメリカ的な、ハリウッド的な、
極めてエンターテイメント色の強い、
一時期日本でも盛況だったモダン・ホラー。
これは日本にも波及して、
おそらく和製モダンホラーもこの流れに入るはず。
というか、僕は勝手にそう思っている。
一時期の宮部みゆきさんなども、
この流れに入るんじゃないかと、
これも勝手にそう思っている。今は分からないけれど。
まー僕の勝手な基準でいくと、
僕の読むほとんどのホラー小説は、
エンタテイメント的要素が強いものばかりなので、
今挙げた枠組みに組み込まれてしまうのだけれど、
ときたまソレをはみ出した作品に遭遇する。
うまく表現できないのだけれど、
ソレが、僕の思う、もうひとつの括り。
僕の記憶に強いのは、デヴィッド・アンブローズの
『覚醒するアダム』という作品。
あとはスティーヴン・ギャラガーの『戯れる死者』。
ついでに言えば、ピーター・ストラウブの
『ゴースト・ストーリー』や『ココ』なども、そう思える。
って、それらを一括りにするのは、
あまりに雑なのだけれど、そこを熟考するのが、
このテキストの主眼ではないので、ご了承。

『チューングボーン』は、後者、
そのエンタテイメントの枠をはみ出したと、
僕は読んでいて、感じたのである。
それは、本書の持つ独特の世界観―
ホラー的な要素はいわば隠れミノであって、
その後ろには主人公の抱える心の迷路が存在し、
彼はある出来事がきっかけで、その迷路と、
自分という人間を知りながら、堕ちていく。
あるいは、救われたのかもしれないが―が大きい。
そして、本書の持つ進行具合―
主人公の行動よりも、思考の描写に重きを置いていて、
それはときに冗長に感じられながらも、
不思議に緊張感を途切らせない―という部分もあるが、
この作品が僕の中で独特のポジションを獲得したのは、
僕の体験と強くリンクしているからであろう。

それは人身事故だ。

上に“ある出来事”と書いたが、
それは人身事故である。
本書の中で、主人公の青年(20代半ば)は、
度重なる人身事故に遭遇する。
彼は大学時代の1度も口をきいたことのない同期から、
ある撮影を依頼される。高額な報酬で。
具体的には、「ロマンスカーの展望車から、
外の風景を撮ってほしい」、という形である。
日時、車両、座席を指定され、3回の撮影を頼まれる。
そのいずれにおいても、主人公は、
人身事故を撮影することになる。
グロテスクなイメージを沸かせて申し訳ないけれど、
ロマンスカーの展望席というのは、
座席のすぐ前、窓の外が線路になっている。
運転席は2階にあるので、乗客は、
展望席の前方にいれば、大きな窓から、
景色を満喫できるのである。
主人公はその最前席で、
構えたビデオカメラに人身事故を捉えてしまう。
もちろん、自分の撮影と人身事故を、
すぐに彼は関連付けて考え始める。
しかしテープの受け渡しに何人もの
人間が介在しているという念の入れようや、
彼らに何か尋ねても、口外を禁じられているようで、
何も情報を漏らさないという点が、
命の危険を感じさせ、それを裏付けるように、
撮影の依頼者である同期生に連絡がとれないこと、
こういった点が、主人公に3度目の撮影を行わせる。
そして、3度目の撮影では、
彼に撮影を依頼した、その本人が、
ロマンスカーに身を投じる。

いったい何が起きているのか?

手を引こうにも、どうにも動けず、
逆に主人公は、単身調査を始める。
こう書くとミステリー小説のようにも思えるが、
主人公の調査というやつは、当然素人のソレであり、
型にはまっていて面白みはないし、
まあそれで徐々に情報が得られていくのも、
そういった小説ではないこと、
そこ―謎解きに、この話の肝がないことを示している。
裏面カバーにあるあらすじ紹介では、
ミステリー的な展開を匂わせているが、
それはとんでもない(そう書いたほうが売れるのだろうが)。

調査の中で明かされるのは、
この撮影は、もともとは、
彼に撮影を依頼した同期生、
彼女の恋人が行っていたということ。
そしてその恋人は、撮影を数回行った後、
精神を崩し、自殺したということ。
そしておそらく、
主人公に撮影を依頼した同期生は、
恋人の後を追ったのだろうということ。
そして撮影の首謀者であろう人物の住所も、
主人公は手に入れることに成功する
(そこを訪れることはないが)。

その中で、再度訪れる、撮影の依頼。

主人公は、次第に自分を見失い始める。
いや、自分の分析をし始めると言うほうが、
正しいのかもしれない。
その分析によって、彼は
自分がおかしいのかもしれないと、考え始める。
撮影を続けていられる自分。
人身事故の被害者に悲しみなど感じない自分。
1回につき30万円という、
高額な報酬が気になって仕方がない自分。
フリーターの彼は、数年務めた
居酒屋のバイトをクビになり、
これまであった“日常”という足がかりをなくす。
これまで“異常”というポジションにあった撮影が、
彼の“日常”になっていく。

いつしか彼は、撮影を望み始める。

ところが、ふいに撮影終了の通達が訪れる。
彼は喜ぶどころか、とまどいを示し、
ついに撮影の首謀者と思しき人物を訪ねる。
撮影を続けたいと伝えるためにだ。
最後まで、主人公が首謀者に会うことはないのだが、
判明するのは、撮影を首謀したのは一個人であり、
なんら組織的なバックボーンはそこにはないということ。
口外しても、命の危険など、どこにもなかったということ。
何のための撮影だったのかということも明かされるが、
それは誰でも想像しうる、まったく驚きのない真相。
「チューイングボーン」という言葉から、
なんらかのイメージを組み立てていた僕は、拍子抜け。

だが、主人公がその真相を知ったあとに、
この物語の肝があった。
そのシーンに向けて、
この物語は爆走していたと言っても、
過言ではないだろうと思う。

首謀者は姿を消し、撮影は強制的に終了する。
日常を失った主人公は未来をも失い、迷走する。
もともと素養があったのか、
それともこの件でバランスを崩したのか、
主人公は自分の迷走の理由を、
身近な命に求め、それを破壊する。
犬のおもちゃである、骨―
チューイングボーンを使って。

そこをひとつのピークとして、
主人公は再生への道を画策し、
転落の象徴とも取れる
チューイングボーンを手放すために、
因縁ぶかい“線路”に佇む。
迫りくるロマンスカーに向かい、
骨を力強く放ったところで、
彼の再生は開始される予定だった―
が、現実には、彼は反対方向からの
車両に突撃されて、空を舞う―

*** *** ***

電車を日常的に利用する人なら、
人身事故に遭遇したことはあるだろう。

年末だった。
零時近かっただろうか。
山手線。混んでいた。隙間はわずかだった。
同じ車両に居合わせた人も多いだろう。
顔なんて覚えていないけれど。
どんな人がいたかなんて、
まったく覚えていないけれど。
高田馬場駅付近。
いつもどおりに、疲れた頭で
車両に乗っていた僕は、
断続的な警笛の音で、覚醒した。
その日に限って、僕は先頭車両にいた。
直前まで人と一緒だったので、
いつも使う乗り口とは違うとこから乗ったんだった。

いつまでも警笛はやまなかった。
異常に、長かった。聞いたことがないくらいに。
おかしいと直感して、心臓が早鐘を打った。

一瞬だった。

何かに乗り上げて、そして通り過ぎた。

電車が徐々にスピードを落とし、止まる。
流れるアナウンスに誰かが溜め息をもらす。
誰かが嘔吐した。
満員電車の住人は、半ば暴動のように、
運転席の窓をコブシで叩くが、
向こうもそれどころではない。
僕らは手動で扉を開けるハンドルを使い、
強引にホームに降り立ったのだった。

ごった返すホームと裏腹に、ガランとした車両。
誰も処理しない、床に残る嘔吐の跡が、
白い電灯に照らされて光っていた。
それを無視して、ホームから線路を覗き込む人。

目撃はしていない。
ただ、自分の乗った車両が、
間違いなく、そう、間違いなく、
人を轢いたのだという、その感覚。
鈍い感覚と、濁った音。
その感覚が、初めてだった。

電車はいつまでも動かなくて、
僕は終電を乗り逃して、
駅はタクシーを用意していたんだけど、
物凄い行列で、それを待つくらいならと、
僕は深夜のネットカフェへ姿を消したのだった。

一夜明けて早朝。
まるで何事もなかったかのように町は動いていて、
僕は手っ取り早く、朝食を食べた。
ダイヤを取り戻した車両に乗り、
都内を脱出し、我が家へたどり着く頃には、
僕はすっかり具合を悪くしていて、
家に着いてしばらくするや、嘔吐を繰り返した。
いまだかつてない嘔吐回数で、
1日に20回くらい吐いてしまった。
それは人身事故とは関係なくて、
ちょうどそのとき流行っていたノロウィルスだった。
病院ではそう診断された。
クリスマスの予定も何もかも、僕はぶち壊して、
部屋の中、布団の中で、寝込むことになった。

一連の記憶は、今も強く残っている。

*** *** ***

物語の舞台となっているのが、下北沢、
それからよく利用する新宿界隈ということもあり、
イメージが容易にできてしまうということもあるんだろう、
僕の記憶と、この物語は、強くリンクしてしまった。

人の死よりも、
自分の予定が壊れたことに対して、
まず思考を働かせる人々。
どうやって帰る?
この辺りに知り合いはいただろうか?
今から別の手段で帰るとすると、
家につくのは何時くらいだろう?
そうすると、明日は○時出勤だから、
睡眠時間は何時間だろう?

誰も責めやしないだろう。
正解となるべき、
模範的な思考など存在しない。
インタビューしたわけではないし、
外見から心の中までは分からないから、
“無反応”かどうかは判然としないが、
それでも、そこに漂う独特の距離感を、
TV画像を見ているような、独特のドライ感を、
感じずにはいられない。
もちろん僕にだってそれは当てはまる。
悲しみなんて、まったく感じていない。

それはひとつの防衛機能でもあるのかもしれないし、
あるいは、そう考えるのは、
まったくのお門違いであるのかもしれない。
あるいは、僕が常々真剣に不思議に思う、
人間の野次馬心理、事件現場に群がり、
そこを覗き込む、あの心理の裏に潜む、人間の秘密、
それが、あの空間に現れているのかもしれない。

*** *** ***

今でも自分の乗った車両が警笛を鳴らすたび、
僕の記憶には、あの瞬間がよみがえる。
馬鹿げたことだと思うが、もしかしたら、
誰かカメラを持った人間が、
車両に乗り込んでやしないかとも疑ってしまう
(本当に馬鹿げているが)。
実際ネットの広い世界には、
人身事故の発生した瞬間ではないが、
現場、車内を捉えた映像も存在している。
もちろん偶発的なものだろう。

なぜ、観るのだろう。僕は不思議でならない。
非難の意味ではない。純粋に不思議なのだ。

本書のような、1回につき30万円という報酬ならば、
撮影を請け負う人間は、間違いなく、いるはずだ。
山のようにね。いるはずだ。

それはおかしいことなのか、正しいことなのか、
正しくないまでも、おかしいと言い切れることなのか、
本書の読後感と、自身の記憶が交じり合って、
いびつな渦を巻いている現在の僕の頭は、
冷静な判断を下すことができていない。

今までこんな読後感を呼び起こした物語はなかった。

そら恐ろしい。

さらにいえば、実際にロマンスカーの展望車への
飛び込みで発生した人身事故も存在しているという点が、
本書に不思議なリアリティを与えてしまっている。

追記:
ネット上で見る限り、あまり本書への評価はよろしくないよう。
読後感は確かによくない。
面白いか面白くないかという物差しで計ると、
まったく、面白くない。それは間違いない。
主人公の行動にクビをひねりたくなる箇所もたくさんある。
でもこのラストシーンを描きたかったのだと思うと、
すべてはそのために存在していたのだと思うと、
僕はそういったダメ出しはできなくなる。
表現が文学的なのが…という意見もあるようだが、
僕はそれはよくわからない。
だって僕は文学作品が大嫌いだから。
でもこの作品は好きだ。それもまた、間違いない。

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参考文献
大山尚利. 2005. 『チューイングボーン』. 角川ホラー文庫

2007/06/24
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