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syrup16gのこと

人生に“必要な人”って何人いるだろう。
仕事は関係ないとして―まあ、仕事と人生が、
どの程度の強さで結びついているかにも依るのだろうけれど。
あなたの人生に必要な人は?
何人いるだろう?
肉親以外で?

うん。

私の場合は……ほとんどいない。
顔が思い浮かんでも、バッサバッサ切り捨てる。
いや、“いて欲しい”人はいるけれど、
“必要かどうか”と、究極の選択を迫られたら、いないんだな。
正直言えば、ほとんど思い浮かばない……、
さびしい人間だ……まあそこは置いておいて、
思い浮かばないってことは、いないってことだろう。

自分自身がこんなんだから、
逆に自分以外の誰かが、自分(つまり私)のことを、
“人生に必要だ”と思ってくれたら、
それは奇跡に近いんじゃないかと、最近思うようになった。
年を食ったのだろうか、今からすると何故か恥ずかしいのだけれど、
以前は「人生に必要なモノ・コト」を問われても、考えても、
“人”という答えは、私の中からは出てきていなかった。

私はブログや、あるいはHP中のテキストで
繰り返し書いていることかもしれないけれど、
やっぱり人生には“人”が必要なのだと思うし、
だからこそ、“必要な人”、
また“必要としてくれる人”に巡り合えることは、
とても幸せなことなのだと思う。素直に。

『音楽と人』No.165、2008年2月号に、
五十嵐隆氏の言葉がある―

 『音楽は確かに自分を救ってくれるものだけど、
 実際はそこに夢があるような、
 ファンタジックなものであってほしい、
 という部分もあるじゃないですか。
 俺にとって音楽は、現実から乖離させてくれる方法であって、
 人の幸せというのは、実はそこにはないわけでしょ。
 やっぱり自分の帰る場所がある、というのをどこかで求めてたし、
 そういう歌詞もいっぱい書いてたと思うし……
 まやかしじゃなく、それが俺を最終的に救ってくれるんじゃないか、
 という希望がどこかにあったし』
(p.70)

“人の幸せというのは、実はそこにはない”。
この言葉の意味をどう解釈するかは、分かれるかもしれない。
“音楽の中には、人の幸せはない”、私はそう解釈してしまった。
あくまでひとつの解釈にしか過ぎないことは、断っておくけれど。
音楽で飯を食っている(いた)のに、
すごいことを言う人だなと、そう思った。
いやそれよりもむしろ、
上記のような解釈が、
まあ、自身の解釈だけれど、私の胸には強く響いた。
なぜって、何となく、自分が目を逸らしていた考えを、
心の隅にフタをしてしまっておいた考えを、
目の前に突きつけられた気がしたから。

……。

どんなにすばらしい映画観たって、本読んだって、
音楽聴いたって、“そこ”には幸せなんかないんだっていう、
そういう考えだ。
“芸術”でも“娯楽”でも何でもいいよ、
“そこ”の部分に当てはめるのは。

じゃあどこにあるんだよ?って問いが発生するけれど、
それは先にも言ったように、そう、“人”との間にあるのだと、
私はそう思っている。
自分がそう思っていることも知っている。
むしろ、そう、快適な人間関係(あくまでイメージだけど)を、
手に入れ難いがために、
というか自分で“自分はそれを手に入れにくい”と思っているゆえに、
1人でも楽に接することが出来る、“芸術”でも“娯楽”でも、
言葉はどうでもいいんだけれど、そういう方向に私は逃げている。
あくまでも、私のことだけれど。私はそう。
デリケート? ナイーヴ? 暗い?
馬鹿? 不器用? ダメ人間? 負け犬?
どんな言葉が相応しいだろう。
必要最低限の人間関係しか築こうとせず、
誰かの懐に踏み込むことを避けてしまう私には。
上の人から「お前は何か秘密がありそうだ」と言われる、
その所以は、なんとなくだが、その辺りにありそうだ。
私の“踏み込まなさ”を快適に思ってくれる人もいる、
それを優しさと取る人もいる、
けれど、優しさじゃないことくらいは、私は知っている。

臆病なだけ。
踏み込もうとして、上手くいかないのが、怖いだけ。
痛がりなだけ。痛がり屋。
誰しも痛い思いは嫌だろうけれど。
私も嫌で。
なんで上手くいかないと痛い思いするのかって、
そう考えると、期待しているからなんだと思う。
最近薄々気付いてきた気がするんだけれど、
どうも私は人に対する期待が過剰らしい。
トゥーマッチ(syrupと重ねすぎかな)。
勝手に自分ペースで期待して、相手の都合も考えず、
期待した反応が返ってこないと、痛がって、
すぐに自分を引っ込める。もう期待しなくなる。
いや、嘘。
期待してるくせに。
期待しなきゃいいんじゃん、って思い込ませようとする。
自分自身に。痛い思いをしないように。
そして、期待してないポーズをする。

けれど、上手くいかない。
つまり、どうにも割り切れない。

+ + +

syrup16gもそんなバンドだったように思う。

“期待して、あきらめて、それでも臆病で”

“Reborn”の歌詞にそうある。
あきらめてるから何でも出来るかと思いきや、
そうはいかなくて、それでも臆病で。
(※しかし誌面でも語られているように、
五十嵐氏自身は“Reborn”を好いてはいない。)

私の場合、期待して、あきらめて、
あきらめてるはずなのに、それでも期待してしまう、
という部分がある、人間関係において。
そんなとき私はsyrup16gの歌をよく聴く。

いかに自分が自意識過剰か知るために、
自分の代わりなどいくらでもいると。
自身に分からせるために。
今さら何を言ったって、ただのノスタルジーなのだと、
自分を戒めるために。
妄想はもうよすんだと、自分に言い聞かせるために。


◆ live at Factory ◆


何の逃げもなく、直球で言葉を届けてくる、彼らの歌。
それはとても鋭利な刃物のようで。
しかしそれくらい鋭利な刃物で自分を脅しつけない限りは、
「期待」というやつは、静かにしてくれないのだ。

「もういいからおとなしくしてろよ」と、
主人である私の言うことを聞かずに、
期待したがる心を、私はそうやって、
彼らの歌で、しばしば脅しつけてきた(いや今現在も)。
もう期待させないでくれと、懇願するように。

過剰に期待する心を巻き戻す。少しでもゼロに近づける。
それが私にとっての、syrup16gの、ひとつのあり方だった。

+ + +

けれど。
期待なんてクソだと、
人生なんて面倒くさいだけだと、
心なんて一生不安なんだと、
確かにそう思う時間は、度々あるが。
それは人生の一側面で。

彼らの歌は、結局答えを出さない。

“明日を落としても”の中で、
“Do you wanna die?”(歌詞カードには非掲載)
と歌われるように、
彼らの歌には問いかける部分も多くある。
それはきっと歌い手の自問自答なのだろうけれど。
聞き手は自分に問うことになる。
人生について考えるチャンスを与えられる。



+ + +

彼らの歌は、割り切れない。
矛盾も多くある。
相反することを歌っているように、
歌によっては、そう受け取れるものもある。
あの歌とこの歌、言ってることが違うのではないかと。

でも人間なんて矛盾だらけで。
よほど生き方を定めていない限り、
その考えは右へ左へ、行き来する。
過去を悔やみ、現在を忘れ、未来を見失う。
現在を彷徨う中で、
つまづいたときに何かを見つけることもあれば、
つまづいて怪我をするだけのときもある。
極端な話、いいこともあれば悪いこともある。
前を向けるときもあれば、後ろしか向けないときもある。

syrup16gの歌には、それらが内包されていた。
きっと。
人生に疲れながらも(それはある種の甘えかもしれないが)、
より良い明日を夢見る視線が、彼らのイメージの中にはある。
もちろんそれは彼らの音を、
リアルタイムで、通して聴いてきた上での、イメージではある。

“夢は叶えるもの 人は信じ合うもの
愛はすばらしいもの
もういいって もういいって”


と歌いながらも、別の歌で、

“愛しかないとか思っちゃうヤバい
抱きしめてると死んでもいいやって
たまに思うんだ”


と歌う。

+ + +

結局、何だったんだろうと、思うときがある。
syrup16gの魅力って。
何てことのない、ことなのかもしれない。
たとえば彼らのライヴ。
良いメロディに、良い声(それはときに尋常でなく)があって、
そこにライヴならではのダイナミクスが重なったときの、
ある種のカタルシス。
それもあるだろう。
でもそれだけでは、ないだろう。

生きにくさなんて、誰でも抱えてるもので、
そこに固執してウジウジするのは、ある種の性質でしかなく、
未熟さと取られることも、あるのかもしれない。
でも、生きにくさって、なかなかオープンに出来ない。
誰かに話そうとしても、同じことの繰り返しになるし、
堂々巡りになるし、最終的には正解はないのだから、
結局「話すだけ」で終わる(ことが多い)。
もちろんそこにも意味はあるだろう。
それで胸のつかえが和らぐときもあるだろう。

でも心なんて一生不安であるからして、
正体不明のモヤモヤは絶えずあるのだ、そこに。
「またか」と言いたくなるほどに。
「またか」と言われることもあるだろう。
そう、syrup16gの歌に、
「またか」と言いたくなるように。

面倒くさい心。

私にとってsyrup16gは、
そのモヤモヤの正体を暴いてくれる存在でもあった。
自分が心の引き出しに眠らせておいた
わけの分からない不安というようなものを、
引き出しをこじ開け、白日の下にさらすのだ。

そして自分が逃げていることを知る。

矛盾だらけで、ちぐはぐで、
心の統制が取れていないことを知る。
見え透いた嘘で、武装して、
自分をごまかしていることを知る。

それでいいやと諦めるのか、
それでも…と、後ろ向きでも前に進もうとするのかは、
自由だ。
当たり前(そして忘れがち)だが、それは聞き手に委ねられる。
そして、“聴き手に委ねられる”という点に関連して、
ここで認めなければならないが、
syrup16gの歌には、ある種の甘えがある。
「ダメだダメだ」と言うのは簡単なことなのだ。
ダメな状況を抜け出すことに比べたら、
力を必要と“しない”。私はそう思う。
そしてsyrup16gの歌は、
決して、それ―抜け出す力を直接的に与えるものではない。
だから、下手をすると、
身をゆだねると、どこまでも流されてしまう。
音楽的な快楽と共に、彼らの歌は精神的甘えを誘発する。
そんな危険を孕んでいる。
中毒性がとても(とても)高い。
だが。
繰り返すが、当たり前で忘れがちだが、
聴き方・受け取り方は、聴き手に委ねられている。
流されたいときは流されればいい。
だがそれだけではいけないと、私は思っていて。

オブラートで包まれた言葉が欲しいときもあるだろう。
けれど逆に、「そんな中途半端な優しさはもう結構」と、
生身の、むき出しの言葉が、欲しいときもある。
虚飾と欺瞞を認め、それらを引き受けた上でこそ、
何かが芽生えることもあるだろう。

あくまで私の話だが。
「これではいけない」と、そう思えるときがある。
彼らの歌を聴きながら、フト、そう思うときがある。

それは彼らの歌の主作用とはみなされないだろう、おそらく。
副作用と言うべきなのか。
自分の弱さ・狡さ・情けなさを認め、
それらを受け入れた上で前に進もうとするのと、
認めずに、受け入れずに前に進もうとするのと、
どちらが正しいのか、私は知らない。
どちらが生きやすいのか、私は知らない。

ただ、2002年9月に渋谷CLUB QUATTROで初めて観てから、
武道館で最期を看取るまで、彼らの音に触れてきて、
syrup16gの歌が、私に与えた影響は・・・、
おそらく、前者なのだ、そう思う。

そのような影響を与えてくれたことに、
感謝すべき、なのかもよく分からないのだけど(笑)。


◆ 2002.09.15 - 渋谷CLUB QUATTRO ◆

+ + +

相変わらず、大げさな話になるけれど。
「自分はsyrup16gのファンである」と、
そう言い切れる人が、世界に何人いるか知らないけれど、
その人たちとどこか何かで繋がっている気がするのは、
私がただのロマンチストなだけだろうか。

+ + +

バカ売れしたわけでもないし、
知名度が高かったわけでもない、
後半、というか、
バンドの歴史が12年であることを考えると、
終わりの3分の1はほぼ活動休止状態で。

偉大、という言葉は似合わない。

とてもとても、スペシャルなバンドでした。
私にとっては。

2007年12月9日のNHKホール。
END ROLL Tourの最終日。
解散(いったん終了という言葉だった)の告知。
そのあとに鳴らされたあのイントロは忘れない。

いえ、忘れたくないですね。なぜか。

ということで、最後はこの曲で―



◆ 翌日 ◆



+ + +

そして。
2008年9月24日。
五十嵐氏は、とあるライヴイベントに、
“犬が吠える”というプロジェクト名で出演し、
ファンの皆が思いもしなかったスピードで
(そして私自身はといえば、
カムバックはないとも思っていたが)、
カムバックを果たす。
まさに電撃的だった。

te'の河野氏(G)、apneaのジョーコ氏(B)、
oakのyoko氏(Dr)を迎えた、4ピースで、
音響に寄った(あるいはシューゲイズ的な)サウンドは、
syrup印を求めるファンには賛否両論?
だったようであるが。

とりあえず、観ないことには始まらない。

そしてそして、2008年暮れには、
“Some Get Town”ツアーと銘打って、
スパルタローカルズ、the telephonesと共に、
東名阪を廻るツアー。

私は幸いにも東京公演を見る機会に恵まれた。
レポートは別に記しました。
コチラ


追記:
しかし誠に残念ながら、ご存知のように、
“犬が吠える”は2009年4月、突然解散しました・・・。


2008/12/02(最終修正日:2009/08/03)
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